「善」について最近知ったこと

 
 最近、手元にいつもある本は、内田義彦著『社会認識の歩み』(岩波新書)です。
 これは、参加している古典の本を読む会で先月の課題図書とされていたものだったのですが、
 期限の先月末までに間に合わず、ずるずるとお風呂の中でも読んだりしていたのでした。

 この本は「私はこのように社会科学について理解をしてきました」という著者自身の認識の歩みを語りながら、 マキャベリホッブス―ルソー―スミス―マルクスという社会科学の歩みをやさしく解説しています。

 1971年の岩波市民講座で語られたものをまとめた内容で、贅沢な市民講座があったものだなあとうらやましくなりました
 (本当は古典の範疇には入らない本ですが)。

 著者は、社会科学を理解するには、書かれていることを日常生活に引きつけて理解しなければならないといいます。
 言葉そのものについても、ヨーロッパの文化の中で使われている言葉をそのまま日本語に置き換えただけでは読み違えてしまうものもあると教えてくれています。
 例えば「参加する」という言葉は英語では、「take part」となって、そこに参加者の一人としてただいるのではなくて、一端を担うという責任を持った意味だということ。また「body」は総体という意味となること(私はそのまんま「身体」だと思っていましたよ)などなど。

 著者は音楽を聞くときに《私はここが好きという形で聞くこと。それが手始めであります》
 と例をあげ、《社会科学の本を読む場合にも、ある程度当てはまるんじゃないか。まず、断片、断片を身につまされる形で知る、そこから始めるべきであります》と、このようなの本で立ち往生しがちな読者を鼓舞してくれます(でも、その文の直後に《もっともそれだけじゃ困るのですが》と断り書きがあるのですけどね)。

 ですので、勇気を持ってどんどん読んでいきましょう。
 
 私はこの本の中で一番シビレたのは「賭ける」ということは、合理的計算ができて(競馬の予想をする人を引き合いに出しています)初めて賭けられるのだから、賭けることは責任を負う方たちで参加をすることという指摘でした。
 そうか、「賭ける」ことはあてずっぽうなことではなくて「責任を負う」というかっこいいことなんだと関心しました。

 それから、ホッブスを解説する項では「善と悪」の「善」という社会科学の中の意味を紹介しているのですが、これも面白いんです。
 私なんかが唯一の意味だと思っていた「よいこと」(「広辞苑」では「正しいこと、道徳にかなっていること」「すぐれたこと、このましいこと、たくみなこと」「なかよくすること」となっています)というような倫理的な意味合いではなくて、《サルトルを読もうとしても三原野球はどうなったかと気になってしまうような》 (時代を感じさせますね)
《精神から排除しようと思っても、知らない間に精神のなかに入り込んでくる》ものが「善」だとホッブスは言っていると解説してくれます。
 ちなみに「新明解」国語辞典(第5版)では「善」は「能力・効果を十分に出し切る」と1番目にあります、こちらの方が近いですね。

 今月の課題図書は西田幾多郎の『善の研究』なので、並行して読んでいるのですけれど、難解ですぐに集中できなくなります。浅田真央ちゃんは大丈夫かなあとか、「アメトーーク」明日見るの楽しみだなあとか、私にとっての善は真央ちゃんや「アメトーーク」で、『善の研究』ではないということです。

 最後にはマルクスが登場します。(『資本論』)「工場立法」について、 
 労働者は必然的に労働時間の短縮が必要になるというマルクスの指摘から
《すべての人間が生存という問題に立たされている。素人といってもずいぶん勉強しなきゃどうにも生きられない》と著者が語るのですが、
 まじめに働いているだけでは、なかなか幸福になれない世知辛い世の中だなあと、昨今の非正規雇用問題などを連想しながら漠然と感じていたことは、もう1800年代からマルクスには自明の問題だったようです。
 

 さて、『善の研究』ですが、その後iPhoneアプリで読むようにしました。夜中にふと目が覚めたとき、枕元の置いておけば、明かりをつけなくても読めるし、周りが暗いのでかなり集中できます。「善」処してますよ。
 
※「新明解」国語辞典(第5版)で「善処」を引くと[政治家の用語としては、さし当たってなんの処置もしないことの表現に用いられる]と書いてあり、ウケます。