俳句教室in公民館

 地域のおば様たちと一緒に公民館で俳句講座に出席。

 地域の句会の先生が初歩から教えてくれる。

 俳句とは季語を入れた5・7・5 である。と言うこと以外あまりよく知らなかった。
 
 「俳句」は正岡子規俳諧と発句をつなげて作った言葉だと説明もあった。そういえば、「月並み」という言葉も正岡子規が《毎月一定の日に集まって俳句会を開く急派を、正岡子規が「月並俳句」と読んだことから一般にありふれて新味のないことに転用されることになった》ものだというのを、先日読んだ『吾輩は猫である』から知った。(角川文庫版の注釈より)。

 ということは公民館で行われている句会も月並み俳句となってしまう。

 今日の講座を聴く限り、俳句とは季語がとにかく命のようである。季語は、「歳時記」に載っている言葉が基準になっているので、自分なりの季節感だけで句に取り入れても、初心者はまず添削されてしまう。
 気づかずにその季節ではない季語が入っていても直されるし、二重に季語が入っていてもよくないようだ。
 発想力の前に「歳時記」にある言葉をいかにに頭に入れ、使いこなせるかが俳句を自在にひねるための前提だ。季語先にありきなので、間違った使い方をすると、季語に合わせて作者の意図とは違う物に直されてしまう。

 句会に出ていると思われる参加者が講座の最後のほうで、自分の作品をどんどん講師の先生に見せ、公開で直されていた。句会ではありふれた光景なのだろうか。参加者の前でできの悪いところ、間違った季語の使い方を直され、講評の時には、句を作った時の心理状態まで勝手に推測される。

 俳句とはオツな趣味だと思ったが、なかなか広い心と度胸が必要なようだ。

 同じ公民館の英会話講座の時には一言も発しなかったおば様達。俳句では別人のようだった。