思い出すときの「あれ」

沈丁花が芳しい。自転車で沈丁花のある庭先の前を通る時、ついペダルの踏む力を緩めて、くんくん、匂いをかいでしまう。
沈丁花の香りは春が到来した嬉しい感情がよみがえって来るので好きなのだと思う。
社会人2年目の頃、外回りをしていて天候の影響をもろに受けていたから、暖かい春がやって来たことが心から嬉しかった。その日、会社の建物の植え込みの沈丁花が満開だったことと記憶がセットになっている。

何かをふいに思い出すとき、特に人物について顔だけ浮かんだりする時がある。その人物について、どこで出会った人であるかや、どんな人だったかなどの具体的な情報が立ち上がってくる前に、感情だけが先に湧き上がってくる。気持ちが和んだり、楽しくなったり、嬉しくなったりする。逆に嫌な気分になることはあまりない。その瞬間の感情が、頭で考える前の純粋な感情なので、本当の自分の気持ちがわかって面白い。

「暮らしの手帖」27号で佐藤雅彦氏がこのような人物を思い出せる、出せないに理由について書いていて(「考え方の整とん」)、とても興味深く読んだ。
二人の知人を例に挙げ、思い出すのにかなり時間がかかったひとりは、かつて自分にとってやっかいなことばかり言う人だった。もうひとりは、電車の中でうつむいて座っていたにもかかわらず、目ざとく見つけ、嬉しさを感じる。その人物は、佐藤氏のために意見を戦わせてくれたことがあった。その人物の会社名や名前より、「味方」であるということがポンと来た。
佐藤氏は人間や生物にとって真っ先に得たい情報は、その相手が「敵か見方か」だけだ。と言う。

私がおぼろげな記憶の中から嬉しい感情だけを感じとる瞬間には、実はそのような本能からの差し迫った事情があったのかもしれないと思うと驚く。しかし、「味方」だから「嬉しい」、そうでもない人は記憶の底に隠れてしまう、というのも、原始的なというか、なんだか身勝手だなあと思う。反面、辛い記憶(乗り越えられなかった辛いこと)に関わった人も同じように思い出したらかなり疲れるだろうから、自然と身勝手な思い出し方になっているのかもしれない。歳を重ねれば重ねる程この傾向は強くなっている気がする。