まず「何を着ていこう」からなのだ!
今朝、回らない頭で新聞をながめていたら(新聞の字が大きくなったのですが、まだ紙面構成の変化に慣れず読みづらいです。字がでかいことを「でがじっかい」と誰かが言い間違えたことにバカ受けしていた安積女子高校の落研の皆様お元気ですか。懐かしく思い出しています。昔のことばかり思い出すのは加齢のせいでしょうか)、
《もしも「ありえない!」事件続出の一ヶ月が訪れたら 何が起こっても私は着回せます》の文字が。ありえないこととは《「もしも、隣の家にジローラモさんが引っ越してきたら?」「もしも、裁判員に選ばれたら?」「もしも昔の恋敵と保護者会でばったり会ったら?」》
40代女性のライフスタイル誌「STORY」4月号の広告です。
むむ。ありえない度は環境によって確率の高さは違うでしょうけど。(ジローラモさんが隣に引っ越すことのほうが裁判員に選ばれるよりありえると思える人は読者の0.1%ほどいるのでしょうか)「裁判員制度が導入される」前に「そうなったら私は何を着ていこう」の心配をしてしまうのかあ。とってもおかしかったので、買いに走りました。
たしかにありえない設定の連続。「フラッシュ」されちゃったり、テレホンショッキングに呼ばれちゃったり。ありえなくても「何を着ていこう」は大切な問題なのかという、そもそも感が残る企画でなのですが。
しかも、誌面での裁判員になった時の服は、私が想像していたものとまったく違った物(主婦が40代で大学に社会人入学して、周りの学生の若さには勝てないので、若さを保ちつつ知性もありように見え、しかも私、結構話せるタイプなの、とアピールしているような服)。
実は、自分が裁判員に選ばれてしまっても、まずは「何を着ていこう」から入るような気もしなくはない。
被告人の運命より先ずは自分の服だ。
いいんですか、こんなんで、裁判員。
午後から、強風と雨の中、子どもにせがまれて映画を見に行く。
毎月一日は映画の日だったので割引がきいた(映画館に着くまで知らなかった)。
見た映画は「魔法にかけられて」
楽しい映画です。子どもは結末が自分の思っていたものと違って戸惑っていたようだ。
そうそう、人間の気持ちはそんなに簡単にはいかないんだよね。