地方都市で考えること

 ここ数ヶ月、時間が空くと、図書館で昭和三十年代の新聞を読んでいる。地元紙だから、トリビア的な情報を得ることができて楽しい。
 私が住んでいる郡山市はかつて「東北のシカゴ」と言われていたほど犯罪の数が多かったらしく、それを嘆く記事も見ることができる。児童公園を壊す高校生や、鳥類園に侵入して鳥や剥製を盗んだり破壊する事件や、市民プールで洗濯をしたりと、公共マナーが明らかに今より悪いと思える犯罪も目立つ。
 当時は当時なりに急激に地方の交通網が発達し、「通りすがりの者」が犯罪を犯しやすい環境があったのかもしれない。『ファスト風土化する日本』(三浦展著 洋泉社新書)が主張するように現代にに限った話しではないようだ。
 著者の三浦氏は、全国で展開するジャスコに見られるような同じ風景の校外では育まれる物が無いのではないかと危惧する。本で挙げられている吉祥寺のような、暮らしと街の歴史がかもし出し個性的な店が並ぶ街は魅力的だと思う。
 地方都市でも集客のために町の中心地に大型スーパーを誘致したものの、その店舗が校外に移転をしてしまい空き店舗のままになっていたり、更地になってしまう例は私の身近にもある。
 三浦氏は安易に街の中心地を空洞化させた国や地方自治体の都市計画を批判する。ジャスコのように売り上げが落ちれば撤退しその地域のことは何も考えていない姿勢批判も同様だ。
 少し話しが逸れるが、今郡山市内でジャスコがあるショッピングセンターは町の北外れだ。この近くの工業地は地域の農家が農地転換を45年ほど前に申請している。農業に未来は無いと判断し、工場での従業員になることを条件に農地を手放したいと申し出ているのだ。サラリーマンと農家の所得格差がまだ激しい頃だ。
 私の記憶では地方の何も無さは半端じゃなかった。歩いていけるところに商店ができたり、スーパーマーケットが日常的な存在になったのは昭和50年代からだ。だから純粋に校外に店ができるのは嬉しかったのだ。便利なことを単純に批判もできまい。
 私は並んで食事を取ったり映画を見たりすることが嫌いなのだが、それはある程度のものは効率的に手に入る環境で暮らしているからだろう。それでも数年前にかかわった中央商店街活性化のためのアンケート調査で、「町の中心に行かなくとも欲しいものが買えるから(中心街まで)行かない」という答えがちらほらあり、いくらなんでもそれはそこそこのもの(趣向の強さが無いもの)で満足しすぎなのではないか?と思ったものだが。
 私が今住んでいる住宅街も、住み始めには近所に大きな生協の店舗があり、かなり便利だった。しかしその後、経営悪化で今は100円ショップになってしまった。せめて自転車が無いと生鮮食品も手に入れることができない不便な街になってしまった。大型店舗は地域を裏切る確率が高い。