ドスンと

 内田樹著『ためらいの倫理学』(角川文庫)を読み始める。
《私たちは知性を計量するとき、その人の「真剣さ」や「情報量」や「現場経験」などというものを勘定に入れない。そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する》

《記憶というのは、その出来事「そのもの」の強度によって記憶されるのではない。その出来事が「そのあとの」時間のなかでもつことになる「意味」の郷土によって選択されるのである。》

 剛速球をキャッチャーミットの中で受け止めたような爽快感がある。受け止めたミットの中の手はしびれっぱなしで、その球を投げ返すことはその場ではできないのだが・・・。

 「愛国心について」という話しでは国旗に向って国家斉唱する場面で会場内の気まずさについてそれが私たちの国家に対する実感であると書かれている。

 この章を読んで私は数年前のある場面を思い出した。

 ある市民活動の勉強会で(確か戸籍とか夫婦別姓についての内容)主催者と講師との会話で、自分たちの子どもの学校行事で国歌斉唱の時にはどうしているかを話し合っていたのである。
 反政府的な考え方の彼女達はひとつひとつ態度表明をするべきと考えていたようだ。国旗や国家が今の政府の象徴ととらえ、真剣に考えているのがかえって国家に対して素直だなあと思ったのと、態度は素直にしたがって、心で舌を出しているという方がよほど辛辣で、本当は国家という物に対しての個人の精神的な自由なのでは?と思った記憶がよみがえった。