失敗の思い出

 今でも仕事中に、ライター時代のことを良く思い出す。

 4年前、派遣先の会社の業績が悪化し、同僚より時給が高い割には子どもが小さいことを理由にして全く残業を引き受けない(られなかった)私は契約を切られてしまった。

 その頃、昔から知っていた人が編集長として創刊したばかりのその雑誌に企画書を出して、地元の消費生活アドバイザーのグループとして取組んでいたことを発表するページをうけもった関係で、スタッフとして迎えてもらった。

 そのためには、さりげなく編集室に遊びに行って、「仕事がなくなっちゃてー」なんていう近況報告をしたのであるが。

 ギャラは安いとは聞いたが、初めてその情報誌の製作にかかわって、本当にびっくりした。
 文字数に関係なく、ページ単価でギャラは設定されていた。
 その雑誌は季刊誌なので、3ヶ月でいくらもらえると言うことになるのだが、ライターは何人もいるので、せいぜい一人10ページ程度しか担当させてもらえない。すると、3ヶ月で8万円なんという信じられないギャラになってしまった。しかも、当然交通費、取材費は込みである。

 これでは、当時既にライフワークと化していた自動車レースを見に行くこともままならないので、単発のバイトなどを入れながら何とか過ごしていたが、それが自分の評価額なのかと思うと惨めで仕方がなかった。

 その雑誌のお金の流れもだんだん分かってきた。制作費を出しているのは、地元の広告代理店で、広告収入が主な財源(のはずだったが、広告が集まらず破綻につながっていく)、製作を引き受ける編集側は、とあるNPO。広告代理店は制作費を丸々NPOに委託費として入金し、そこからスタッフに分けられていく。

 そもそも、今まで何の経験もなかった私がいきなり編集と記事を任されるということ自体ハードルが低すぎた。やる気があって、ただ同然でも仕事を引き受けるカモだったのだ。

 広告代理店側も、主婦が中心となって作る雑誌(情報の内容から子どもがいることが必須だった)なので人件費を多いに安く見積もったとしか思えない。


 その後、雑誌はすぐにつぶれ、その間にいろいろな内輪もめがあって、思い出しても情けなくなるのだが。
 私が失敗した原因は、自分でちゃんと判断せず、とにかくついていこうと思ってしまったことだ。
 編集長が「書くこと」では食べていけない状態だったとはつゆ知らず、書く仕事に単純に憧れていたからなのだ。だって、TVで見る編集者ってみんなかっこよくて高給取りじゃん。

 編集に参加する前に雑誌の読者で参加したときに、取材が終わった後の喫茶店代が皆自腹だった時におかしいと気づけば良かったのだ。


 後からでは、何とでも言える。

 ともかく、私のライター時代は惨めなものだったが、安いとは言え書くことでギャラがも らえる経験は面白かった。

 そして、書くことが生活から切り離せなくなっている。 

 今更ながら、どうすれば食べていけるライターになれるのか、考えている。