親より豊かになれない

 『昭和が明るかった頃』(関川夏央著・文春新書)では、東京オリンピックまでの3年間の高度成長時代と吉永小百合の全盛期が重なっていると発見した上で、その時代にとって吉永小百合とは何だったのかというテーマを当時の社会や映画界、日活の作品群、石原裕次郎が求められていた像などについて触れながら解いていく内容であった
。著者は吉永小百合の映画が当たらなくなった時期と、高度成長時代の社会に翳りが出てきたのが1966と言う。
 ということは、私が生まれた頃にはもう、ただ希望だけの未来があるという時代は終わっていたということだろうか。確かに小学校に入った頃にはオイルショックがあったりと、不安を感じることもなくはなかったが、それでも昭和40年代から50年代の地方都市で育った子どもの目には、次々とでこぼこ道が舗装されていく姿や、大手スーパーやデパートが進出してくる様子は、将来の豊かさへの実感があった。
 アメリカで親より豊かになれない世代という将来に希望を持てない青少年の問題が話題になっていたのは今から十数年前だっただろうか。今現在の日本がちょうどそんな世代を抱えている。
 歴史的にも稀有な高度成長期を生きてきた世代と(稀有だということを頭で分かっていてもその時代の空気を吸ってしみついた感覚からは逃れられない)将来の自分のあり方が読めない昨今の青少年には溝ができてしまうのも仕方がないことだ。そして、高度成長期の親達は将来の豊かさを感じながらも食うために働かざるを得なかった人たちである。ヒロシの「お金がなくて引きこもりたくてもできません」と言うネタがあるが、それが現実であったのだ。
 将来豊かになれるかどうか分からないけど、食べていける。という環境の中で仕事をしていくのはそれなりの自分の中での理由がなければ続けられないかもしれない(そもそも仕事につければまだよい方か?)。そこで、多いに参考にしたいのがヨン様を追いかける方たちである。何かに夢中になる。できればバーチャルではなく本物に会いたいと思う。新たな体験と感動は何歳になっても必要なのである。頑張って。怪我に気をつけて。